研究所について

創設者紹介

創設者・小林謙策の横顔

明治40年長野県に生まれ。35年間、小・中学校の教諭、校長を歴任。昭和30年6月、一人娘に自殺され、その深い悲しみを自分自身の家庭における子育ての反省として、家庭における正しい親子関係のあり方を探求。研究の末「親が変われば子どもが変わる」という家庭教育の原理を考え出し、東京家庭教育研究所を設立。その後、家庭教育普及のため、講演・著作に尽力。昭和58年11月をもって、東京家庭教育研究所所長を退任。平成元年5月逝去。同年従五位勲五等瑞宝章受賞。

「娘の霊にささぐ」  小林謙策(東京家庭教育研究所初代所長)

わたしが、家庭における子どもの教育がいかにたいせつであるかを、身にしみて感じたのは、昭和30年6月に、ただひとりの娘に突然自殺されたときからです。
当時、わたしは、長野市浅川中学校の校長をしておりました。人さまの大切な子どもをおあずかりして、教育しなければならない立場のものが、自分の娘の教育さえ満足にできなかったのはなぜだったか、19年間の娘に対する教育のどこが間違っていたのだろうか。何はなくとも、平和で楽しかったはずのわが家に、突然おそったこの悲しみ、苦しみが、きびしくわたしを反省させたのです。
わたしは、家庭における子どもの育て方に大変な間違いをおかしておりました。
生来わたしは、勝気で、負けることが大きらいな性分でしたから、娘に対しても、小さいときから、「えらくなれ」といって育ててきました。
大きくなるとさらにそのうえに「人よりえらくなれ」という意味さえつけ加えておりました。
娘は小学校、中学校、高等学校までは、だいたい自分の思いどおりに伸びてゆきましたが、東京の大学に行ってからは、そうはゆきませんでした。あらゆる努力をしてみても、自分よりすぐれているものが、幾多あることを知ったとき、もはや、わが人生はこれまでであると、生きるのぞみを失い、新宿発小田原行の急行電車に投身自殺をしてしまったのです。
娘が母親に残した最後の手紙には、「両親の期待にそうことができなくなりました。人生を逃避することは卑怯ですが、いまのわたしには、これよりほかに道はありません」と書かれ、さらにつづけて、「お母さんほんとうにお世話さまでした。いまわたしはお母さんに一目会いたい。会っておかあさんの胸に飛びつきたい。お母さんさようなら」と書いてありました。
それを読んだ妻は、気も狂わんばかりに、子どもの名前を呼びつづけ、たとえ一時間でもよい、この手で看病してやりたかった――と泣きわめくのでした。
この姿の中には、子どもと母親の心の結びつきの深さ、親子の真の人間性の赤裸々な姿をみることができました。
考えてみれば、子どもは、順調に成長してゆけば、だれでも「えらくなりたい」と思うものなのです。這えば立ちたくなり、立てば歩きたくなり、歩けば飛びたくなる。これが子どもの自然の姿です。心ない草木でさえも、常に伸びよう伸びようとしているように、子どもは無限の可能性をもって、伸びよう伸びようとしているのです。それなのに、わたしは愚かにも、娘に向かって、「人よりえらくなれ」といいつづけてきたのです。「自分の最善をつくしなさい」だけで、娘は十分のびることができたはずです。
わたしは、娘の死によって、家庭教育の重要性を痛感いたしました。そしてひたすらに、子どもとはどういうものか、親はどうあらねばならないかを探求しつづけてきました。
親は子どもの伸びる力を信じて、認めて、引き出してやる大切な役割をもっているのです。ことに母親と子どもとの魂と魂のふれ合いの中から、本当に情操ゆたかな子どもの人間性が育ってゆくのだと気づきました。
わたしの、悲しい経験から生まれた、この家庭教育の講演をお聞きになって、一人でも多くの子どもさん、お母さんが、幸せになってくださったら、その姿の中に、わたしの娘は永遠に生き続けることができるのだと信じて、そこにわたしの生きがいを感じることができるのです。
命あるかぎり、わたしは、この問題と取り組んでまいります。

昭和46年9月

※「娘の霊にささぐ」は、家庭教育に生涯を捧げられた東京家庭教育研究所の初代所長・小林謙策が、娘である紀子さんへの思いをつづったものです。